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2011年4月26日 (火)

「チェルノブイリ事故と旧ソ連政府:現地取材禁止から政権陥落と国の崩壊へ」ル・モンド紙・写真(4月25日)

チェルノブイリ原発事故が起きた1986426日にモスクワに配属され1993年までの間フランス・ラジオとフランス・テレビ1のモスクワ特派員を務めたユリス・ゴセットが、チェルノブイリ事故が起きた当時の状況を語った(複数の写真と音声入り)。

http://www.lemonde.fr/planete/infographe/2011/04/25/tchernobyl-les-journalistes-ne-pouvaient-pas-se-rendre-sur-place_1512384_3244.html 

「偶然ですが、426日にフランス・ラジオとフランス・テレビ1モスクワ特派員として配属され業務を開始しました。でも、最初は何が起きていたのかが分からなかった。政府関係者が現地に向かうのを見て、何か重大なことが起きたのだと思ったのですが、何の公式発表も無かった。原発事故に関する情報は無かったのです。

そして事故発生から24時間後に、ソビエト政府の名前で『チェルノブイリ』原発事故による被災者への弔意を伝える声明だけが出されました。それで初めて『チェルノブイリ』だと特定されたのです。でも、実際に何が起きていたのか、また惨事の規模についても、何も分かりませんでした。24時間が経過して初めて、何か重大なことが起きたという事実だけが伝えられたのです。

何が起きていたのかを理解するのは至難の業でした。当時、外国人記者はモスクワを出て取材することを禁止されていたのです。

現地から列車で到着する人たちに、事故の深刻さについて取材を行いました。そして7月上旬になって初めて、チェルノブイリ周辺地域を訪問することができたのです。非常に強い印象を受けました。プレカットの町に入ったのですが、住民が完全に退避した後で、ゴーストタウンになっていました。子どもが遊んでいた人形、ノート。。全てこのようにうち捨てられて、全く予期されていなかった事態だったことが伺えました。事故の後の数週間、ずっとそのままにされていました。そしてそれ以来、今に至るまでずっとそのままなのです。

ゴルバチョフ大統領は最終的には事故の状況を発表して透明性が確保されていることを印象づけようとしました。プロパガンダや抵抗もありましたが、遅ればせながら検閲を無くそうとする流れができて行ったのです。そして最後には、ソ連とゴルバチョフ政権自体の陥落を招くに至りました。最終的に、この事故は劇的かつソ連の歴史を根本から覆すものとなったのです。事故によって、ソ連の歴史が新たに塗り替えられたのです。

写真:

l  事故発生直後のチェルノブイリ原子力発電所(複数)。

l  緊急退避により捨て置かれた子どもの人形と学校の教室内。

l  ゴルバチョフ大統領(当時)

l  関係者による状況説明会

http://www.lemonde.fr/planete/infographe/2011/04/25/tchernobyl-les-journalistes-ne-pouvaient-pas-se-rendre-sur-place_1512384_3244.html 

Ulysse Gosset, Le Monde, 2011.04.25

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