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2011年7月13日 (水)

「ドイツはなぜ原発をやめるのか?(2)脱原発で電気を電力会社から取り戻す」ルモンド紙/ウルリッヒ・ベック(7月10日)

「ドイツはなぜ原発をやめるのか?(1)〜『原子力というリスク』を取らない生き方」http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/1710-d674.html
に引き続き、ウルリッヒ・ベック教授による「遂に『原子力後』(ポスト原子力)の時代がやって来る」の続きを掲載します。

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3.原子力的「社会主義」:利益は電力会社へ、無限のリスクは納税者と将来の世代へ

「保険」についての問題はどうだろうか。奇妙なことに、市場経済の帝国においては原子力は最も国家社会主義的な産業として存在した。少なくとも、失敗に対する代償を誰が支払うのか、という問題について言えば。利益は民間企業の懐に入るが、リスクは社会によって分配されている。つまり、将来の世代や納税者が担うのが当たり前と思われている。もし原子力発電を行う企業が(納税者や将来の世代といった)原子力を実施するにあたっての「保険」を準備できなくなった場合には、「お得な原子力発電」という作り話はもはや過去の思い出でしかなくなる(つまり、実施が不可能になる)。

21世紀の初めにあたる今日、原子力エネルギーに関する議論に使われている「危機(リスク)」の概念は、19世紀に使われていた「死ぬか生きるか」といった二者択一の議論(つまり、死に至る場合のみを「危機」と見なし、そうでない場合は見なさない単純化された議論)であり、今日私たちが生きる時代が直面している現実を見えなくさせている(注4)。したがって、原子力をやめるのが非理性的なのではない。むしろ、福島で原発事故が起きた後でさえ原子力を擁護し続けることが非理性的なのである。こうした態度は、いわば賞味期限の切れた時代遅れのリスク概念に基づいたものであり、歴史的経験から教訓を引き出すことを拒否するものだ。


4.ドイツは原発をやめ経済発展を遂げる

ドイツほど早く経済発展を遂げた工業国は無い。それでは、脱原発、という方向転換は、根拠の無いパニックによる動揺から生まれたものなのだろうか。長期的に見れば、原子力発電にかかる費用は今後どんどん高くなって行くし、自然エネルギーによる発電は割安になってゆく。しかしここで重要なことは、原子力を含む全ての選択肢を引き続き残しておこうとする者は、(自然エネルギーの開発に向けた)必要な投資を行わないということだ。もしドイツがこのような考えを持っていたとしたら、エネルギー政策の転換など行わないことだろう。しかし、ドイツ人を脱原発に向けて突き動かしている苦悶の裏に何の策略や計算が無い訳ではない。

ドイツ人は将来に向けて発展するであろう市場の経済機会を嗅ぎ分け、察知する。ドイツでは、電力政策の転換は4つの文字に要約される。すなわち、「仕事(jobs)」である。皮肉なドイツ人だったら、こんな風に言うかもしれない。「他の人たちはこれからも怖いもの知らずのままでいればいい。そういう人たちは、経済の停滞と投資の失敗という結果に終わるだろう。」原子力推進派は節電設備や代替エネルギーの開発に向けた投資を行わないために、市場で成功する道を自ら断つことになるだろう。

(現在の)21世紀初めの状況は、他の時代に起きた電力供給における歴史的な新局面(すなわち新たな技術の導入による電力供給の大転換の時期)に匹敵する。もし250年前の第一次産業革命初期に人が石炭、鉄、蒸気による動力機器、機織り機、そして鉄道に投資すべきという助言をはねつけていたとしたら、どうなっていたことだろう。もしくは、50年前にアメリカ人がマイクロプロセッサーやコンピューターやインターネットに投資するという考えを拒否していたら、どうなっていただろうか。

私たちは同じ流れの上にある歴史的瞬間に直面している。自然エネルギーによる発電を開発する者は、砂漠の一部分で太陽光発電を行って国家全てが必要とする電力をまかなうことができるだろう。太陽光を独占して所有することができる者はいない。誰も太陽を民間経営にしたり国営化することはできない。誰もがこの電力源を自らのために、そしてそこから利益を生むために開発することができる。世界で最も貧しい国の住民が「太陽の豊かさ」を自由に使うことができるのだ。

(最終章へ続く)

<注4>被曝しても死なないケースは多い。しかし死なないから大丈夫、リスクは無い、と言うことはできない。今の社会における「危機(リスク)」の概念が以前よりも複雑になっていることを著者は示唆している。

ルモンド紙によるオリジナル記事
(Ulrich Beck, « Enfin l’ère postnucléaire », Le Monde, 2011.07.10)
http://www.lemonde.fr/idees/article/2011/07/09/enfin-l-ere-postnucleaire-par-ulrich-beck_1546872_3232.html

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