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経済・政治・国際

2011年8月19日 (金)

原発礼賛の論理を読み解く:「環境活動家」(?)ジョージ・モンビオは、科学データを読むのをやめたのか?(その2)/ガーディアン&クーリエ・アンテルナショナル(7月28日)

「その1」掲載から少し時間がたってしまいましたが、福島原発事故の後に原発礼賛派に転向した英ガーディアン紙の環境コラムニスト、ジョージ・モンビオによる記事の続きをお送りします。

 

環境分野に詳しい原発礼賛派の活動家がどのような論理で原発擁護を語るのかを知ることは、「御用学者」対策同様に私たちが情報を見分け自らを守るための参考になるでしょう。モンビオによる議論の特徴は、地球温暖化や環境に関する部分的に正しい情報や政府・電力会社批判とともに、原発推進を正当化する非科学的な情報が混ぜて提示され、原発推進に信憑性があるような印象を与える点です。

 

少し復習しておきましょう。

前回取り上げたモンビオの主張の要点(と対応する現状)は、以下のとおりでした。

(「その1」はこちらhttp://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/1728-94b4.html

 

 電力業界は政府と癒着することによって原発を安全と見せかけ、適切な安全対策を怠っている。福島原発事故でも明らかになった通り、これが原因で事故が発生する。しかしこのような癒着・腐敗は自然エネルギーや火力・水力発電においても同じことである。

 

(現状:原発推進ロビーの巨大な政治力、財力、ネットワークは日本・フランスでもよく知られている。太陽光や風力発電についての状況は同じではない。安全対策を怠ることによる被害も、原子力は他の発電方法と比較できない程深刻である。)

 

 原子力の技術は日々進化しており、現在の技術は安全である。福島第一原発は1970年代に作られた古い原子炉だったために故障したが、1980年代に作られた福島第二原発については停止・冷却とも問題無かった。従って、原発は安全である。

 

(現状:福島第二原発は過去にも深刻なパイプ破損事故を起こしており、震災の際も原子炉をすぐに停止させることができなかった。モンビオの記事は、事実に反している。)

 

 国際原子力機関(IAEA)によれば、福島原発事故による健康被害は現在のところ確認されていない。

 

(現状:福島原発事故以来、子どもの甲状腺被曝を初め多数の急性被曝症状が公的機関によって確認されている。チェルノブイリ事故の教訓から、今後は癌を初めとする多数の晩発性症状の発生が見込まれる。)

 

それでは続きをどうぞ。

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国際原子力機関(IAEA)によれば、福島第一原発で起きた原子炉の溶解による健康への影響は、一切無いらしい。今回の事故は人びとの心に傷を残し混乱を招くものであったにせよ、事故の発生以来放出された放射能にさらされた人たちについては、「今のところいかなる健康被害も確認されていない」(IAEAによる報告書を引用)。

 

この状況を毎年10万人もの死者を出している石炭による火力発電が引き起こす環境汚染と比較すれば、あなたは原発がスケープゴートにされていることに気づくだろう。更には、原発の安全性を気候変動による被害や死者数にも比較してみてほしい。私たちが原発に対して示す反応が、気ちがいじみているさえ言えるくらいオーバーなものであることが分かるだろう。

 

原発を選ぶか否かの選択の結果は、単純だ。ドイツは原子力を一切やめると決めたが、これは4000万トンもの二酸化炭素を毎年排出することを意味する。この6月、アンゲラ・メルケル首相は今後10年間で石炭とガスによる火力発電所の発電可能量を倍増させるべく発電所の建設を行うと宣言したのだ。現状での発電量が下がるのを補うために、ドイツはすでに最もひどい汚染をひきおこすとされる褐炭燃料を使用している。

 

原発の問題について、原発に反対する者たちは4つの議論を展開している。まず第一に、「電力の使用量を減らさなければならない」というものだ。これはどんな科学技術が可能になろうとも必要なことだ。しかしたとえ世界の電力需要が大きく減少したとしても、交通機関や暖房機器から放出される二酸化炭素の削減は、電力供給の増加なしにはあり得ない。イギリスでは代替技術研究所(Centre for Alternative Technology)が、我が国の二酸化炭素の排出量削減を目指し2030年までに電力使用量を55%削減する、というとても楽観的なプロジェクトを行っている。しかし、同センターは同じ期間中に電力への需要が倍増することを見込んでいるのである。

 

反原発を唱える関係者が挙げる第二の議論は、新しい原発を建設するのは10年から15年の歳月を要し、これは長過ぎる、というものだ。しかし再生可能エネルギーのための事業を立ち上げるのにだって、10年から15年の歳月が必要になるはずだ。

 

3つ目の議論は、ウランの貯蔵庫が空っぽにな(り原発の燃料が不足す)るかもしれない、というものだ。その通りだ。我が国の気候変動委員会ですら、ウラン鉱山の埋蔵量は50年で底をつくと予想している。しかし私たちはその前に、今ある原発から出される放射性廃棄物で稼働する原発の利用を含めた「第四世代の原子力技術」へと移行しなければならない(注:現状では、核廃棄物の再利用によるMox燃料を用いた原子力発電は世界で多くの技術的問題を証明している。我が国の「もんじゅ」高速増殖炉がその一例である)。

 

原発反対の議論で挙げられる4つ目の理由は、核廃棄物を安全に処理することができない、というものだ。たとえ核廃棄物を貴重な燃料として利用するという考えを脇に置いて、廃棄物を捨てたいという考えから出発するとしても、核分裂性物質を地下に埋めることが危険だという考えは、支離滅裂だ。そもそも、核分裂性物質は地下の土の中から来たんじゃなかったっけ?なぜ鉛の箱に閉じ込めコンクリートにはめ込んだウランを、さらにその上からコンクリートで覆った形で地下何千メートルの場所に埋めるのが危険なのだろう?自然界では地球のあちこちの表面に近い部分にウランが埋まっているというのに?将来そんな奥まったところに埋められた廃棄物を取り出す技術が開発されて、核廃棄物の有毒性に気づかぬまま取り出ししまう、なんてことが起きるとでも言うのだろうか?

 

これらの議論は全て、電力業界が情報を操作し政府と共謀したことで醸成された不信感から来るものだ。しかし、電力業界の陰謀を批判しながらも原子力を支持することは可能だ。新しい原発の建設はこれまでにない監視と透明性を確保した形で実施されなければならない(注:福島第二原発での事故は、作業員が警報を無視したために大事故につながった。原子力の危険性は、「監視と透明性の確保」で解決するレベルのものだろうか。)―他のどんな電力源による発電の場合と同じように。大きな電力業界に権力を任せておけだって?ノーサンキュー。

 

(George Monbiot, « Les antinucléaires se trompent ! » Courrier international n°1082, 2011.07.28)

2011年8月15日 (月)

「小出裕章著『原発のウソ』が売り上げ25万部を記録―政治家、官僚、専門家、メディアへの日本人の怒りは収まらない」ルモンド紙(8月14日)

福島原発事故の勃発から既に5ヶ月が経過し、私たちの生活は徐々に日常を取り戻しつつあるように見える。福島県その他の被災地を除いては、表面上は以前の通常の暮らしが戻りつつある―役所や企業の電灯が以前より減り、空調の温度が上がっていること以外は、特に変わりない。

しかしこうした印象は、人びとが居酒屋で友人たちや原発事故の被災者たちと交わす会話とは全く相容れない。ブログや動画には人びとの怒りが溢れている。多くは、「裏切られた」と感じている。そして彼等の怒りは、エリート層―政治家、官僚、専門家、メディア―に向いている。原発事故の背後にある共謀、陰謀、操作、工作。こうしたテーマについて、150冊以上の書籍がアマゾンのサイトに並んでいることすらも、人びとのこうした気持ちを代弁している。

最も売れているベストセラーの一つは、京都大学原子炉実験所の小出裕章助教による『原発のウソ』。既に25万部が完売した。著者は以前より地震国家日本で原発事故が起きる可能性をとなえて警告を発し、原発を抱える地域の住民たちが起こした訴訟のために証言を続けて来た。しかし以前出版した著作の売り上げは数千冊にとどまり、福島での原発事故以前は、その発言に耳を傾ける者は全くいなかった。

その他によく売れているのは、佐藤栄佐久元福島県知事による『福島原発の真実』。東京電力に対し正面から反対を唱えている。原発建設にかかわる技術者として働いた菊池洋一による『原発をつくった私が、原発に反対する理由』も良く読まれている。

まだ萌芽期にある原発事故の被災者による運動は、人びとに耳を傾けてもらうのにまだ苦労を重ねている。しかし今回の大惨事をきっかけに、被災者、ボランティア、そして未来について心配する人びとが、これまで日本に存在して来なかった民主主義の新たな結集と運動を体現しようとしている。この怒りの声は方々に響いている―しかし、まだ政治的な声としての形には落ち着いていない。

(要約、一部編集)
(Philippe Pons, « Après Fukushima, la colère rentrée des Japonais se lit dans les succès de librairie » Le Monde, 2011.08.14)

2011年8月11日 (木)

原発礼賛の論理を読み解く:「環境活動家」(?)ジョージ・モンビオは、科学データを読むのをやめたのか?(その1)/ガーディアン&クーリエ・アンテルナショナル(7月28日)

福島原発事故の後、他の複数の「環境活動家」たちと共に原発推進派に転向した英ガーディアン紙の環境コラムニスト、ジョージ・モンビオ(注1)。「福島原発事故の後で、私が原子力を愛するようになった訳」で原発礼賛宣言を行い、その転向ぶりで世界の環境関係者の注目を浴びた。以来、既に複数の環境専門家が、モンビオが記事で引用した科学データの解釈に関する多くの誤りを指摘している(注2)。

日本では長く「原発は(発電時に)二酸化炭素を出さないので、環境に優しい」との広告が使われて来た。福島原発事故の後、原発推進派はどのような論理を用いて生きのびようとしているのだろうか。そしてその論理に正当性はあるのだろうか。

環境問題を専門とするモンビオは、正しいデータに誤ったデータを混ぜて提示することで、原子力を正当化しようとしてみせる。原発反対派に受け入れられやすい政府批判、電力会社批判とともに、原発を擁護する。

モンビオの記事を、原発が抱える問題を指摘する他の科学者たちのデータや解釈と照らし合わせながら、確認してみよう。

(下記の訳は、英ガーディアン紙に掲載された記事の抜粋を『クーリエ・アンテルナショナル』が仏語で掲載したものに基づいています。この記事は、原発のコストを指摘する広瀬隆による「週刊朝日」の記事等と共に、原発推進派の意見として掲載されました。)

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「原子力発電を行う企業は政府と癒着している。でもそれは火力/水力発電、代替エネルギーによる発電でも同じこと」

権力は腐敗している。そして原子力発電は権力の腐敗そのものだ。そもそも、原子力セクターとは核開発研究の副産物として発展したのである。核の軍事利用と民間利用の二つがこれまで無理やり分けられてきた一方で、世界のあちこちにいる原子力関係者たちは、政府との親密な関係、という最も大きな秘密を隠し、説明を拒否した上で維持し続けている。

こうした訳で、イギリス政府が福島での大惨事の影響を最小限に見せるために、企業と共謀していたことが、6月の末にガーディアン紙の手で明るみになったのである。民間企業を所管するイギリス政府の官庁によれば、事故への対応に関連する大臣たちへの公式の要旨説明や大臣たちが行う宣言の内容にすら、電力会社が作成した分析が使用されていたという。

まさに、この種の政府と企業の間の共謀関係があるために、事故が起きる。国際原子力機関(IAEA)による最新の報告書によれば、福島原子力発電所を運営していた東京電力という会社は、津波の脅威を過少評価し、いくつもの故障が起きることを十分に予想していなかった、という(注3)。一時的な法規制では怠慢を防ぐことはできなかったのである。世界中で、原子力発電を行う電力会社は、腐敗と「いんちき」にまみれた「ろくでなし集団」として批判を浴びてきた。

こうした観点からは、原子力発電を行う電力会社というのは残り電力セクターから明確に区別される。原子力にかかわらない残りの電力セクター関係者にしても、原子力企業よりましだということはない。彼等の唯一の関心ごとは、ちょっとした幸せを広めること、といった次第だ ― 石炭、石油、ガス、原子力、風力、太陽光、といった、電力会社にとっての全ての投資先組織は、政治家たちをあやつり、監視機関に圧力をかけ、世論を丸め込むのである(注4)。これら企業が持つ過度の権力は、多くの被害をひきおこしている。原子力に対する損害は、その一つだ。しかしながら、原子力を支持する議論は手堅い。


「福島原発事故が証明した『最も安全な科学技術』原子力」

安全性についての話から始めよう。原子力発電所の安全性と耐久力は、福島原発事故で一目瞭然となった。メルトダウンや爆発が起きた福島第一原発の方ではない。その隣にある第二原発(注5)のことである。「福島第二原発」なんて、一度も聞いたことがない、だって?説明しよう。こちらの原発も「福島第一」と同様、怠慢な会社が運営している。同じ地震、同じ津波に遭った。でもこちらは良好に維持されている。大波に襲われた他の全ての原発同様、「福島第二」は自動的に停止され冷却された(注6)。核ミサイルによる攻撃と同様、想定される全てのテストの中で最も厳しいテストに耐えたのである。

「福島第一」と「福島第二」の違いは、1970年代に作られた安全装置と1980年代に作られた装置の違いを如実に表している。「福島第一」の最も古い原子炉は、1971年に稼働を始めた。「福島第二」の原子炉は1982年である。そして現在の科学技術は「福島第二」に使われているもの以上に安全だ。21世紀に作られた原発を非難するために40年前に建設された原発の問題を糾弾するのは、現代の飛行機による交通システムを批判するのに、「ヒンデンブルクの悲劇」(35人の死者を出した1937年の旧式飛行機事故)の事例を用いるようなものだ(注7)。

ところで、国際原子力機関(IAEA)によれば、福島第一原発で起きた原子炉のメルトダウンは健康への影響は一切無いということだ(注8)。今回の事故は心に傷を残し混乱を招くものであったにせよ、事故の発生以来放出された「放射能にさらされた人たちについては今のところいかなる健康被害も確認されていない」と記載されている。

(その2に続く)


(注1)ジョージ・モンビオ「私が福島原発事故の後で原子力を愛するようになった訳」ガーディアン紙 3月21日(英文)
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/mar/21/pro-nuclear-japan-fukushima


(注2)「ジョージは原発ロビーに迎合するために、科学データを読むのをやめたらしい」環境専門家のポール・モブスがジョージ・モンビオによる原発記事で使用されている科学データの誤りを詳細に指摘(英文)。
http://www.energybulletin.net/stories/2011-03-31/new-report-picks-apart-george-monbiots-support-nuclear-power-and-finds-factual-an


(注3)IAEAによる報告書は、東京電力の主張に沿って「想定外の地震や津波の被害を受けて福島原発事故が起きた」、との点を強調する内容となっており、全電源喪失の原因となった設備の不備や、原発の管理体制、そして後に述べられる放射能による健康への影響については指摘がなされていない。IAEAと同時期に日本で調査を行い報告書を出したフランスの独立研究所CRIIRADによる分析とは対照的な内容となっている(CRIIRADによる報告書については「注8」を参照)。

IAEAによる報告書(和訳、東京茶とら猫さん訳、ex-skfさん掲載。)
http://ex-skf-jp.blogspot.com/2011/06/iaea.html 

<参考>フランスねこ 報告書の一部解説
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/iaea52461617-e6.html


(注4)日本を含む世界各国で強い政治的影響力を誇る原発ロビーの力は広く知られている。少数の独占電力企業が、原発以外の電力源の開発を後回しにして原発を推進する現状では、「風力ロビー」、「太陽光ロビー」などが原発ロビーと同等の影響力で存在している、とは言いがたい。同じ企業が、一方で原発を推進しながら他方で太陽光のロビーとして動くということは考えにくいからである。


(注5)震災前に福島第二原発で発生していた事故

・1989年1月、3号機の原子炉の心臓部にあたる再循環ポンプの内部で異常が起き、異常振動の警報が発せられたにもかかわらず、運転員が警報を無視したためにポンプの内側が大破した。大破の際にポンプの羽根の破片やケースが削られたことによる金属片・金属粉が大量に炉心に入り、その一部はほとんど回収不能となった。ポンプの破損が外側に及んでいたら、一時冷却水が漏れだし空焚き事故やメルトダウンにつながる危険もあった。その後、発電所は長期にわたって停止されるに至った。

・2008年1月、3・4号廃棄物処理建屋(RW/B)の海水ポンプA(以後RWSWポンプ)の吸い込み側配管及び電動機と羽根車をつなぐシャフトが折損するトラブルが発生。これを受け3号RWSWポンプBを緊急点検、東京電力、東電環境、東電工業等が点検を実施する事となった。

・2008年2月、サイドバンカーにて2号の使用済み核燃料を積載したキャスクをクレーンで吊り上げ作業中にクレーンがトリップするという事象が起きた。
(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/福島第二原子力発電所、高木仁三郎「食卓にあがった放射能」p107-108)


(注6)東日本大震災発生時の福島第二原発における事故対応(朝日新聞、8月10日)

「東京電力は(8月)10日、東日本大震災で被災した福島第二原発(福島県楢葉町、富岡町)の事故直後の対応状況を発表した。福島第一原発のような炉心溶融や爆発は避けられたものの、冷却装置が津波で損傷し、水温が100度以下で安定する冷温停止になるまで最も遅かった4号機で4日近くかかった。」「津波による故障で3号機以外は海水ポンプを使った冷却ができなくなり、地震や津波で外部電源や非常用ディーゼル発電機も一部失われた。」
http://www.asahi.com/national/update/0810/TKY201108100522.html


(注7)事故が起きた福島第一原発の第一号機(米ゼネラル・エレクトロニック社製)と同型・同年代の原子炉はアメリカでも広く使用され、現在も稼働している。チェルノブイリ事故の原因となった第四号機と同型の原子炉についても、いまだロシア国内で広く稼働している。従って、古い科学技術が今は使用されていない過去のものだと言うことは難しい。

また、最新式の「第三世代原子炉」と目されるフランスの「欧州加圧水型軽水炉(EPR)」についても、電源喪失の可能性があることが指摘されている。
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/epr725-7cc1.html

EPRを設置予定の「夢の原発」フラマンビル原発竣工に関連した問題の数々
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/15722-f523.html


(注8)IAEAと同時期に日本および福島で福島原発事故について調査を行ったCRIIRADは、事故が与える健康への影響について強く警告している。

CRIIRADによる報告書(パート1〜3)
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/criirad20115246.html 
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/criirad201152-1.html
http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/criirad201152-2.html 


(George Monbiot, « Les antinucléaires se trompent ! » Courrier international n°1082, 2011.07.28)

2011年7月15日 (金)

「菅首相の脱原発宣言〜財界からは批判、福島県関係者からは強い支持」ルモンド紙(7月15日)

菅直人首相は7月13日、大多数の国民の期待に応えて、日本が今後原発を廃止してゆくことを示唆した。この発言は、経団連を初めとする財界からは強い批判を浴びる一方、福島原発事故の影響を直接に受け、今も放射能汚染に苦しめられている福島県関係者からは強い支持を得ている。

福島原発事故の影響を最も強く受けている福島県では放射能汚染の影響が日常生活にまで及んでおり、県外への退避者が8万人にのぼっている。福島県では現在、複数の市町村が電光掲示板で放射線量の掲示を行っている。7月13日時点での飯舘村での放射線量は一時間当たり4マイクロシーベルトで、法定量の被曝量を越えていた。郡山市では10マイクロシーベルトを越える場所もある。

福島県関係者の心配は、「段階を追って原子力への依存度を減らして行く」とする菅首相の方針では落ち着くに至っていない。しかし他方で、南相馬市の桜井勝延市長は首相の発言を「良い決定だ」と評価。佐藤雄平・福島県知事もこの機会をとらえ、「福島から原発を無くすために全ての手を尽くして欲しい」と述べた。

他方、保守派からは菅首相の方針に疑念の声が上がっている。経団連では東京電力の清水元社長がこの4月まで副会長をつとめており、7月12日火曜日には経団連として政府に対し原子力発電の推進を要請している。この経団連に近い立場を取る日経新聞は、首相が「脱原発」のカードを使って人気を回復し自らの政府を救おうとしている、と批判している。

実際には、菅首相による今回の宣言は驚くにはあたらない。福島原発事故以来、首相は繰り返し原子力への依存度の軽減を目指したい旨を表明してきており、浜岡原発の停止に際しては電力政策の見直しを示唆している。7月21日には、再生可能エネルギーの使用に関する法律を国会に提言する予定となっている。菅首相による「ポスト原発」へのコミットメントは、3月11日の津波の直後に「明治維新や終戦に匹敵する新しい時代が日本にやってくる」と首相が述べた演説の中身を具体化する手段でもある。

(Philippe Mesmer記者が福島県より取材しました。一部要約しています。)

(Philippe Mesmer, « Le premier ministre japonais se déclare favorable à une sortie du nucléaire », Le Monde, 2011.07.15)

2011年7月13日 (水)

「ドイツはなぜ原発をやめるのか?(3)脱原発は民主主義への道」ルモンド紙/ウルリッヒ・ベック(7月10日)

前回、前々回に引き続き、ウルリッヒ・ベック教授による論文「遂に『原子力後』(ポスト原子力)の時代がやってくる」の続きをお送りします。

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5.原発事故による危機意識の高まり、団結、そして電気を自らの手に取り戻すための民主化へ

太陽光発電は民主的だ。原子力発電はその性質からして反民主主義的である。原子力発電所から電気を引く者は、請求書にある金額を支払わない人間への電気を断ち切ってしまう。こんなことは、自宅で太陽光発電を通じて電力をまかなっている人間には起きようがない。太陽光発電は、人を独立させる。

言うまでも無く、太陽光発電が人々を自由にする潜在的な可能性を持つという事実は、原子力エネルギーによる電力の独占に疑問をつきつける。アメリカ人、イギリス人、フランス人―あれ程までに自由に価値を置く人々が、なぜ電力政策の転換がもたらすであろう「自由への解放」という結果を理解できないのだろうか。

(ドイツによる電力政策の転換に直面して、)あちこちで人々が(ドイツにおける)政治の終焉を宣言し、それを嘆き悲しんでいる。しかし逆に、リスクに対する見方を変えれば、私たちは「政治の終焉」の更なる終焉を引き起こすことができる。これを理解するためには、アメリカ人哲学者のジョン・ドゥーイが1927年以来その著作『公衆とその諸問題』(邦訳2010年、ハーベスト社)で示した見方に立ち戻るべきだろう。ドゥーイによれば、国際的な世論の高まりは政治的な決定を生み出さない。しかし政治的な決定がもたらす結果そのものは、市民の物の見方に極めて重要な問題を引き起こす。

それまではお互いに全く関係の無かった個々人が、危機を感知したことによって互いに連絡を取り合わざるを得なくなる。リスクの存在を認識したことによって、これらの人々にはそのリスクを消し去るための義務と支払うべき代償が生じる。原子力の「危険」に対するヒステリーで過剰な反応だとして、多くの人が非難されるべきと考えている個々人の反応は、実は民主的な社会を形成するために必要な社会の転換と両輪の関係にある電力政策の転換をもたらすのに必要不可欠な展開なのである。

原子力による大災害が起きる危険性を許す行動戦略は、文明という観点から見る時、資本と国家の新自由主義経済的な連携が生み出す秩序を意味のないものにしてしまう(注5)。原子力に関する災害に直面し、政権を握る者としての新たな正統性を持つや否や、国家と市民社会の運動は新たな力を得ることになる。逆に、原子力産業は自らが行った投資の結果として全ての人の人生を危険にさらすことにより自らの正統性を失う。反対に、今日のドイツで見られるような市民社会と国家の新たな連帯は、歴史的なチャンスを生み出すことになる。

政治的な観点からも、電力政策の転換には意義がある。保守的で財界の近くに身を置く者だけがこのような電力政策を交渉し勝ち取ることができる。こうした転換に最も強く反対する者が同業者だからこそ、交渉できるのである。

原子力経済から脱却するというドイツの決意を批判する者は、自らがさなぎから抜け出て「再生可能エネルギー」という名の蝶として羽ばたいて行こうとしていることに気づかずに(原発の)消滅を嘆く醜い青虫のような、そんな過ちにいずれは苦しむことだろう。(了)


<注5>すなわち、政府と財界が協力して原子力の危険を容認する行動戦略を容認している場合にも、「文明」の観点からこうした現状を見直せばこうした秩序は意味のないものになる、の意。

ルモンド紙によるオリジナル記事
(Ulrich Beck, « Enfin l’ère postnucléaire », Le Monde, 2011.07.10)
http://www.lemonde.fr/idees/article/2011/07/09/enfin-l-ere-postnucleaire-par-ulrich-beck_1546872_3232.html

「ドイツはなぜ原発をやめるのか?(2)脱原発で電気を電力会社から取り戻す」ルモンド紙/ウルリッヒ・ベック(7月10日)

「ドイツはなぜ原発をやめるのか?(1)〜『原子力というリスク』を取らない生き方」http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/1710-d674.html
に引き続き、ウルリッヒ・ベック教授による「遂に『原子力後』(ポスト原子力)の時代がやって来る」の続きを掲載します。

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3.原子力的「社会主義」:利益は電力会社へ、無限のリスクは納税者と将来の世代へ

「保険」についての問題はどうだろうか。奇妙なことに、市場経済の帝国においては原子力は最も国家社会主義的な産業として存在した。少なくとも、失敗に対する代償を誰が支払うのか、という問題について言えば。利益は民間企業の懐に入るが、リスクは社会によって分配されている。つまり、将来の世代や納税者が担うのが当たり前と思われている。もし原子力発電を行う企業が(納税者や将来の世代といった)原子力を実施するにあたっての「保険」を準備できなくなった場合には、「お得な原子力発電」という作り話はもはや過去の思い出でしかなくなる(つまり、実施が不可能になる)。

21世紀の初めにあたる今日、原子力エネルギーに関する議論に使われている「危機(リスク)」の概念は、19世紀に使われていた「死ぬか生きるか」といった二者択一の議論(つまり、死に至る場合のみを「危機」と見なし、そうでない場合は見なさない単純化された議論)であり、今日私たちが生きる時代が直面している現実を見えなくさせている(注4)。したがって、原子力をやめるのが非理性的なのではない。むしろ、福島で原発事故が起きた後でさえ原子力を擁護し続けることが非理性的なのである。こうした態度は、いわば賞味期限の切れた時代遅れのリスク概念に基づいたものであり、歴史的経験から教訓を引き出すことを拒否するものだ。


4.ドイツは原発をやめ経済発展を遂げる

ドイツほど早く経済発展を遂げた工業国は無い。それでは、脱原発、という方向転換は、根拠の無いパニックによる動揺から生まれたものなのだろうか。長期的に見れば、原子力発電にかかる費用は今後どんどん高くなって行くし、自然エネルギーによる発電は割安になってゆく。しかしここで重要なことは、原子力を含む全ての選択肢を引き続き残しておこうとする者は、(自然エネルギーの開発に向けた)必要な投資を行わないということだ。もしドイツがこのような考えを持っていたとしたら、エネルギー政策の転換など行わないことだろう。しかし、ドイツ人を脱原発に向けて突き動かしている苦悶の裏に何の策略や計算が無い訳ではない。

ドイツ人は将来に向けて発展するであろう市場の経済機会を嗅ぎ分け、察知する。ドイツでは、電力政策の転換は4つの文字に要約される。すなわち、「仕事(jobs)」である。皮肉なドイツ人だったら、こんな風に言うかもしれない。「他の人たちはこれからも怖いもの知らずのままでいればいい。そういう人たちは、経済の停滞と投資の失敗という結果に終わるだろう。」原子力推進派は節電設備や代替エネルギーの開発に向けた投資を行わないために、市場で成功する道を自ら断つことになるだろう。

(現在の)21世紀初めの状況は、他の時代に起きた電力供給における歴史的な新局面(すなわち新たな技術の導入による電力供給の大転換の時期)に匹敵する。もし250年前の第一次産業革命初期に人が石炭、鉄、蒸気による動力機器、機織り機、そして鉄道に投資すべきという助言をはねつけていたとしたら、どうなっていたことだろう。もしくは、50年前にアメリカ人がマイクロプロセッサーやコンピューターやインターネットに投資するという考えを拒否していたら、どうなっていただろうか。

私たちは同じ流れの上にある歴史的瞬間に直面している。自然エネルギーによる発電を開発する者は、砂漠の一部分で太陽光発電を行って国家全てが必要とする電力をまかなうことができるだろう。太陽光を独占して所有することができる者はいない。誰も太陽を民間経営にしたり国営化することはできない。誰もがこの電力源を自らのために、そしてそこから利益を生むために開発することができる。世界で最も貧しい国の住民が「太陽の豊かさ」を自由に使うことができるのだ。

(最終章へ続く)

<注4>被曝しても死なないケースは多い。しかし死なないから大丈夫、リスクは無い、と言うことはできない。今の社会における「危機(リスク)」の概念が以前よりも複雑になっていることを著者は示唆している。

ルモンド紙によるオリジナル記事
(Ulrich Beck, « Enfin l’ère postnucléaire », Le Monde, 2011.07.10)
http://www.lemonde.fr/idees/article/2011/07/09/enfin-l-ere-postnucleaire-par-ulrich-beck_1546872_3232.html

2011年7月12日 (火)

「ドイツはなぜ原発をやめるのか?(1)〜『原子力というリスク』を取らない生き方」ルモンド紙/ウルリッヒ・ベック(7月10日)

ヨーロッパの経済を牽引する大国、ドイツ。ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、福島での原発事故が勃発した直後、『リスクの社会学』(邦訳『危険社会』)などの著作で知られる環境問題と危機管理専門の社会学者、ウルリッヒ・ベック教授(注1・注2)を電力政策に関する特別専門部会の委員に任命した。その後ドイツ政府は、メルケル政権の元で脱原発政策へと大きく舵を切ってゆく。

ドイツの政策転換の背景にあるのは、どのような考え方なのだろうか。

こうした疑問に答えるべく、ルモンド紙は7月10日、ドイツ政府が電力政策を転換するに至った議論と考え方を簡潔に示したベック教授自身による寄稿論文を掲載しました。(一部要約しています。又、小見出しは訳者によるものです。)

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遂に「原子力後」(ポスト原子力)の時代がやって来る

ウルリッヒ・ベック

ここでこれから述べるのは、今後2021年に向けて原子力発電から自然エネルギーによる発電へと転換をはかろうとしているドイツ政府の政策基盤となった、専門家による提言の一部分である。ドイツは原子力発電から脱却することが、実は強い経済を作り出す重要なチャンスの源であることを、これから証明するだろう。


1.原子力推進派による批判〜脱原発は「非理性的」で「原始的」?

「あなたたちドイツ人は孤立している。」

アメリカの環境活動家スチュワート・ブラント(注3)は、ドイツによる脱原発政策をこのように批判し、次のように続けた。

「ドイツの行動は無責任だ。経済的な観点からも、地球温暖化の危機への配慮を行うという意味でも、我々は原子力発電をやめることはできない。」

英国ガーディアン紙のジョージ・モンビオット編集長は、「これまで原子力について疑念を抱いたこともあったが、福島での原発事故で原子力エネルギーの価値を確信した」と述べて、原子力発電に対しこれまで以上に高い評価を行っている。

「日本の原子炉は(福島原発事故で)史上最悪の地震と津波、という最も厳しい試練を受けざるを得なかった。それなのに、今日に至るまでまだ誰も死んでいない。ほら、だから僕は原子力発電が好きなのさ。」

しかし、ドイツによるエネルギー政策の転換が、ヨーロッパにおける近代性の概念と縁を切り、混沌と森の生活に象徴される原始的な時代へと後戻りすることを示すものだと考えるのは、大きな間違いだろう。

今(ドイツで)力を持とうとしているのは、自ら生み出した危機に直面した時、人々が新しいことを学ぶことのできる力、そして近代性が新たなものを創り出すことができると考える信念である。

(今(ドイツで)力を持とうとしているのは、一般に知られるドイツ人の非合理性ではなく、自らが生み出した危機に直面して新しいことを学ぶ力、そして近代性が新たなものを創り出すことができると考える信念である。)


2.原子力で複雑・深刻化する現代の「リスク」〜回復できない被害

原子力の推進派は自分たちへの評価と支持をより強固なものにするため、経験から学ぶことの無い固定した「危機(リスク)」概念への支持を呼びかけ、じっくり考えることもなく(250年前の)第一次産業革命の時代を(今日の)原子力の時代に比較している。

(第一次産業革命の時代に受入れられていた)「危機管理」の原理は、想定されうる仮定のうちで最も悪い事態が現実になりうる、従って我々はこうした見方に立って予防策を選択しなければならない、という原則から出発する。例えば家の骨組みが燃えている時には、消防士がかけつけ、保険会社が保険金を払い戻し、必要な医療サービスを惜しみなく与える、といった風に。

(危機に対しては常に「予防策」や「事後の対処」を取り得る、という前提に立った)この公式を原子力発電の危険にあてはめると、(最悪の原発事故が起きた場合でも、ウランは数千年の代わりに数時間しか被曝を引き起こさず、隣接する大都市の住民を退避させる必要は無いことになる。これは、言うまでも無く常道を逸している。チェルノブイリや福島で原子力発電所の事故が起きた後ですらまだ、フランス、イギリス、アメリカ、中国、そしてその他の国々にある原発が安全だと言い続けるのは、経験に基づいて物事を理解することを拒否していることに他ならない。実際には、結論は正反対となる。つまり確実に言えることがあるとすれば、大規模な原発事故が再び起きる、ということだけだ。

大規模な装置で発電すれば、(電力源が何であれ)全てのリスクをゼロにすることはできない、と主張し、石炭による火力発電、植物などの生物体を燃料としたバイオマス発電、水力発電、風力や太陽光による発電を行った場合にも、原子力発電の場合と比較可能な程度のリスクが生じると結論づけることは、原子力発電所で炉心溶融が起きた際に生じる危険についての私たちの知識を否定することになる。

そうした場合に生じる放射能がどれだけ長い間存在し続けるか、セシウムや放射性ヨウ素が人や周囲の環境に引き起こす損害がどれほどのものであるか、最悪の事態が起きた場合に我々が何世代に渡ってその汚染と痛みに耐えなければならないか、を私たちは知っている。そして更には、自然の力によって生み出された代替エネルギーが、原子力のように時間や空間や社会の壁を越えてどこまでも続く被害、といった形でのリスクを引き起こすことは無い、という事実を知っている。
(その2に続く)

<注1>ウルリッヒ・ベック教授略歴

ミュンヘン大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス社会学教授。
主要著書に『危険社会』(邦訳『危険社会―新しい近代への道-叢書』1998年、法政大学出版局)。「チェルノブイリ原発事故やダイオキシンなど、致命的な環境破壊をもたらす可能性のある現代の危険とそれを生み出し増大させる社会の仕組みとかかわりを追究。科学と政治のあり方から『危険』のメカニズムを分析」(アマゾン・ドットコムによる解説より)。1944年、ポーランド生まれ。

<注2>朝日新聞によるベック教授へのインタビュー記事「原発事故の正体」(2011年5月13日)byねこねこさん
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1537440.html

<注3>「グローバル・ビジネス・ネットワーク」などの主催で知られる科学者。


ルモンド紙によるオリジナル記事
(Ulrich Beck, « Enfin l’ère postnucléaire », Le Monde, 2011.07.10)
http://www.lemonde.fr/idees/article/2011/07/09/enfin-l-ere-postnucleaire-par-ulrich-beck_1546872_3232.html